私の英語の旅は37歳の時に始まりました。親子留学とは名ばかりで、あと先考えないでカナダに住むことに決めたのです。時は1988年、昭和が終わろうとしていた時代でした。
高校時代に特に受験勉強はしなかったので、中学・高校の英語の授業だけ。その頃の英単語も文法もほとんど忘れていた状態です。
英語がしゃべれないので、電話の契約も娘のデイケア探しもままならないという、今考えたら自分の無謀さに恐ろしくなります。
英語力ゼロで、2歳になったばかりの娘を連れてカナダへ
カナダに住む前に、1ヶ月ほどバンクーバーに旅行しました。下見という訳ではなかったのですが、ちょうど春の時期で街中が花で溢れていました。
空港からダウンタウンに向かう途中は高級住宅街で、広い庭には木々が生い茂り、古いイギリス様式の家が隠れてしまうほど。ここはおとぎの国か、夢の国のように思えたものです。
ダウンタウンのサービスアパートメントに1ヶ月滞在し、娘をバギーに乗せて毎日公園や街を歩き回りました。ある日、にぎやかな通りに英語学校があるのが目に留まりました。
オフィスを訪ねてみると、スチューデントビザを出してもらえばカナダに滞在できるようです。なんとか英語学校のレターをもらって帰国しました。
英語が話せないのでどこも断られる。デイケアは3歳からだった!
ビザをもらうために東京のカナダ大使館に行った時、娘のデイケアについて尋ねました。大使館のオフィサーからバンクーバーのイエローページ(電話帳)を渡されたのを今でも覚えています。
イエローページを頼りに何ヶ所かデイケアを回りましたが、どこでも英語を話せる人を連れてきなさいとけんもほろろ。どうもデイケアは3歳からのようです。
カナダに来たのはいいが、目的の英語学校には行けずに悶々とする日々が続きました。
日本人ボランティアに助けられ、18ヶ月から入れるYMCAに入園
そんなある日、ボランティアとしてデイケアで働いている日本人の女性に出会いました。私の悩みを聞くと、ダウンタウンのYMCAのデイケアなら18ヶ月から預かってもらえると教えてくれ、親切にも付いて行ってくれることに。
その日本人の女性のおかげで娘はデイケアに通えるようになり、私も晴れて英語学校に入学することができました。
英語がしゃべれないと受験不可の運転免許をなんとか2回目でゲット
住んでいたアパートからデイケアまではそれほど遠くなかったので、バスとタクシーで送り迎え。問題は買い物です。日本の食料品店がある日本人街はダウンタウンの外れにあり、子連れで大荷物を抱えて毎回バスに乗るのは無理がありました。
そこで思い切ってドライバーズライセンスをとることを決心。日系の新聞「バンクーバー新報」の広告を見てドライビングスクールに申し込みました。
スクールといっても実際に教習所があるわけではなく、運転席と助手席の両方にハンドルがついた車があるだけです。
まずは筆記試験を受けるよう教本を渡されました。英語ができないと試験を受けさせてもらえないので、受付の時にどの順番に何を聞かれるかを暗記。当時は、筆記試験は辞書持ち込みで時間無制限だったのでなんとか仮免をもらうことができました。
日系ドライビングスクールのニシ氏の日本語はぶっきらぼうで、叱られてばかりで落ち込むレッスンの日々。でも、厳しいばかりでなく、毎回コーヒーを奢ってくれる優しいところもあって、なんとか実地試験まで頑張りました。
試験でも英語がわかるふりをしましたが、思わぬ失敗。試験官が何か言っているのがわからず、OK、 OKと受け流していたら、サイドブレーキを上げろって意味でした。そんな調子ですから、「落とすのはあなたのためです。」とか言われて、1回目は落第。
なんとか2回目でパスしました。
英語で英語を勉強するのは、生真面目で融通の利かない私には無理だった
カナダでは学校で勉強するのが主でした。最初はスチューデントビザのレターをくれたダウンタウンの語学学校、次は大学の準備コースみたいな学校に転校。英語を英語で勉強するスタイルで、辞書も英語です。
2番目の学校は大学準備コースですから、エッセイやディベートの科目があってそれはそれで面白かったのですが、英語の細かいニュアンスがわからなくてモヤモヤしていました。
ディベートの授業は私に合っていたみたいで、今でも覚えています。「中国人の移民はカナダ社会にとって良いか、悪いか」のディベートで、私は悪いサイドに。すごくいい出来だったのですが、大多数の学生が中国人だったため、判定で負けてしまいました。
「ネックは冠詞と前置詞」前置詞が間違っているのでエッセイを見てもらえない
英語のエッセイは型を勉強して、その通りに書けばよかったのですが、いつも型通りすぎてワンパターンだと言われたものです。
エッセイでは思わぬ問題が起こりました。前置詞を間違えているのでエッセイを読んでもらえなかったのです。すごく面白いチャイニーズヒストリーの授業だったのですが、自分から落としなさいと言われたのです。
単位を一つでも落とすとスチューデントビザを更新してもらえないので、仕方のないことなんですが、これは今でも尾を引いていて、私が英語をしゃべれないのは前置詞がわからないからだ、というトラウマになっています。
結局、話せないまま帰国
大学準備コースの次は、ビザのために映画学校に入学することにしました。ここでは1年のビザがもらえましたが、コンピューターグラフィックスの3Dコースを選んだため、あまりの難しさに早々にドロップアウト。
結局、4年半も住んで、英語はモノにならず、娘は日本語がしゃべれないという悲惨な状況で帰国することになりました。